いわざらこざら
むかし、むかし いまからおよそ八百年も前の昔のことじゃ。
讃岐は昔から雨の降らんところでの、よう日照りがあつて米ができなんだ……。
そのころの都の大将は、平清盛という侍であったんやがの、その人が、
阿波の民部田口成良という、池普請の上手な人を呼びつけての、
「讃岐の百相の郷にある池を、もっともっと丈夫に、もっともっと水の溜まるよう、大きくいたせ。」
と言いつけたんやと。
ほんでの、田口成良は讃岐の百相の郷へ来て、池の普請(工事)に掛かったんやけど、
何べん堤をこっしゃえても、後一息というところでたまたま長雨におおての、
堤がめげて(こわれて)しもうてのう、どなん(どんなに)してもできあがらんのやと、都からは、
「早ういたせ。」
いうて催促してくるしの。困ってしもうた成良は、大勢の家来を集めて
「何ぞ良い手だてはなかろうか。」
というて相談したんやそうな。そなにいうても、ええ方法がちょっこらちょいと(簡単に)浮かんで来るわけもないしの。
そうこうしよるうち(そのうち)、家来の中から年のいた侍がつっと顔をあげて
「成良さま、お籠りなされてはいかがでござりまするか。」
というたんやと。お籠りいうたらの、二十一日の間、神さんのお社に入っての、
昼も夜も寝んと(ねむらずに)お祈りすることをいうんじや。水
の他は、これという食物を何も食べんとの。そいで、成良は、その家来のいう通り、早速お宮さんでお籠り
したんやけど、明日はいよいよ満願(お願いを掛けるためのお籠りが終る日)という夜、くたびれ(疲れ)果てた成良は、眠るで
もなく覚めるでもなく、うつらうつらしもっての(しながら)それでもお祈りをしよったんじゃそうな。
ほしたらの(そうしたら)、白い衣を着た髪の長い女の人が、スーッと煙みたいに現れての、
「この池成就の手だては、人柱をたてるよりほかはあるまい。人柱をたてよ、人柱をたてよ、明日の朝一番に池の下の道を通る女
を堤に埋めよ。その女は白布とちきり(機織りをする時の道具を持っていようほどにな。」
というとの、また、スーッと消えてしもうたんやと。ハッと目が
さめた成良は
「これこそ神のお告げか。」
と喜んで、さつそく、家来を集めて人柱になる女を捕まえるために家来に番をさしたんやと。一方そんなこととは露も知らん女
の人はの「機屋(織物の問屋)と約束した白布を織り上げるのに、この月が大の月(三十一日の月)なら間にあうが、
小の月(三十日の月。二月は二十八日か二十九日)では間にあわん。向かいのおじいに問うたら「この月は大の月じゃ。」といい、
裏のおばばに問うたら「この月は小の月じゃ。」という。誰かほんまのことを教えてくれる人はないかいの。」
といいもって(いいながら)、織り上げた布の何反かを問屋へ持つて行こうと、まだ夜も満足に明けきらんうちに、池の所へやって
きたんじゃそうな。そいで役人のおる番所を見つけて、
「あれ、あんな所にお役人が居るようじや。お役人は何でもよう知っとるけに、あの人に問うて見よ。」
というての、自分を協まえるための役人とも知らんとそばへ寄っていっての、
「この月は大の月かえ。小の月かえ。」
と問うたんやと。さっそく、侍たちはその女を捕まえて、人柱にしてしもうたんやけどの、池の堤に埋められるとき、
女の人は我が身の悲運を嘆き悲しんでの
「いうんでなかった、来るんでなかった。いわざらこざら、いわざら、こざら…………:」
といい続けたということじゃわい。
それから後、ほんまに、どんなときにも堤はきれんように(きれなくなる)なっての、郷の人はがいに(大変)助かったんじゃ
と。そいでこの女の人のお陰じゃいうて、神さんにして祀ってあげたんじゃそうな。
そいでも、その堤の東の隅からは、どこからともなしに水が漏れての、その水の音を偉い坊さんが耳をすまして聞いたら
「いわざらこざら、いわざらこざら……」と聞こえたというし、女と一緒に埋めたちきりから竹が生えて、
それが竹藪になったともいうわいの。
ほいで、昭和四十二年から四十四年にかけて、この堤の水漏れを直す工事をしたんやけど、あまりにもきちんとできて、
水のぶる(もれる)音も聞こえんようになってしもうたけん
「それでは あんまりかわいそうじゃ。」
ということで、堤に女の人の白い像を建てて(当時の竜雲中学校美術教師万木淳一製作)ちきり神社のお祭りとは別に、池
の堤で毎年お祭りをするようになったんじゃそうな。